努力は必ずしも実らない!?
ここ、浄土真宗・龍善寺、早稲田納骨堂界隈にも秋の気配を感じるころになりました。
まだ、夏の真っ盛りの8月の終わりに、龍善寺に勤める若い僧侶が、本山・京都東本願寺で行われた、真宗大谷派の住職資格を得るための試験に合格しました。一回で合格するのはとても難しいと言われている試験です。
合格発表の日、京都からの朗報に、龍善寺では「すごぉい!」「やったねぇ」などの歓喜の声が溢れました。よかったぁ、ほんとうにおめでとう!
その昔、私も、仏教関係ではありませんが、1年に1度のある試験に挑戦したことがあります。子育てをしながらの勉強でしたが、1回目に、あと1点というところで落ちました。
世の中にはさほど努力をしなくても知識が頭に入るタイプと努力しても点数がとれないというタイプとがあると思います。難しい試験を一回で合格する方は前者のタイプでしょう。もちろん、私は後者の方です。
どちらかと言うと、前者のタイプである夫に家庭内家庭教師をお願いしたことがありました。夫からは「お母さん(つまり、「私」)と勉強して、自分だけが合格するのは悪いから、やめておく」と断られました。「おっしゃる通り!」と妙に納得。その後、自力を尽くしましたが、浪人しても点数が落ちるばかりだったので、結局、数年後、断念しました。
オリンピックで成功する選手などの中には、「努力は必ず実ります。子どもたちにも諦めないでとメッセージを送りたい」などとおっしゃる方がいます。その一方で「努力は人を裏切ると心得よ」と言い切った方がいます。漫画家の水木しげるさんです。「努力は人を裏切る」とは、ご本人が作られた「幸せになるための7カ条」の中で書かれているものの一部です。だからと言って水木さんが「努力」を否定したわけではありません。著作を読んだわけではないので、詳しくは存じあげませんが、「努力」には縛られないけれど、「好奇心」や「打ち込めること」、「好きの力」を主客とし、戦争で片腕を失くし、半端ない苦労の中でも、自然体で努力をも楽しまれ、道を究めた方だと拝察いたします。
なにはともあれ、努力は必ずしも実らない。私は、いつも、そう思っています。
私も長い間、自分の記憶力の悪さにコンプレックスを持ち続けています。努力したってちっとも身につかない。でも、仏教には「薫習」という言葉があります。「くんじゅう」と読みます。私の名前もここから頂いたそうです。お香が衣服に染み付いていくように、教えが身に染み込んでいくようにと願われた名前だと受け止めています。私たち、浄土真宗門徒が聴聞する時も、「毛穴から」と言われています。寝ていてもいいから、まず、その場に身を置くことを大切にしているのでしょう。「薫習」という言葉に助けられます。
人は健康な時には、病院に行かないように、私たちも何事かがない限りは、お寺に足を運ぶことはないのが普通です。もしかしたら、お寺に行ってみたいと思うことがあっても、敷居が高くて、なかなか・・と感じられている方もいらっしゃるかもしれません。それでも、龍善寺・早稲田納骨堂やお墓に亡き方をお預かりしている皆様には、その方々が龍善寺にご縁を紡いでくださっています。早稲田納骨堂やお墓にお参りいただきながら、お寺で何かやってるから、行ってみようかなとそんな気軽な気持ちが生まれたら、是非、お寺に足をお運びください。「その気になる」こと自体、「有る事難し(あることかたし)」、有難いことです。そして、そのときこそが自分でも気づかなかった自分の「心が解かれる『とき』」になるやもしれません。
それから、それから・・眠りながら、聴聞する人を見かけたら、薫習されているのだとそっと見守ってあげてください。私かもしれません。( ´艸`)
ほんとうに物覚えが悪くて嫌になってしまう私ですが、それでも、ふと浄土真宗の教えの言葉が頭をよぎることがあります。先の試験での勉強も変なところで役に立ちます。
「努力は必ずしも実らない。でも、努力は決して無駄にはならない。」
聞き重ね、染み込んだ浄土真宗の教えの言葉に「そういうことかぁ」と教えられる齢(よわい)になったと感じている今日この頃です。
浄土真宗(真宗大谷派)龍善寺では、9月20日(火)、23日(日)、24日(月)、14時半から彼岸会の法要が勤修されます(14時より受付開始)。早稲田納骨堂、お墓へのお参りはもちろん、彼岸会の法要、法話会への参加をお待ちしております。
20180915 釋尼至薫