真宗の仏事
今月3日、4日の両日において、早稲田墓陵(早稲田納骨堂境内墓地、早稲田納骨堂、早稲田永代供養墓)がございます龍善寺で、永代経という合同法要が行われました。2日間で合計450名もの皆様にお参りくださいました。
ご法話は、港区芝了善寺住職の百々海(どどみ)先生にお越しいただき、「真宗の仏事」という講題でお話しを頂きました。
お話の中で、仏事は「人間が生まれ、そして死んでいく」という厳粛な法の世界、いのちそのものの世界から私達に呼び掛けられている事を、人間の言葉で解き明かしてくださっている。そういうことを共有化するのが浄土真宗であり、また、仏教の目標であるというお話を頂きました。
東京では浄土真宗が少ない地域ですので、法事は亡き方に対してお勤めされると理解されています。それは追善供養といい、追加して良い行いである法要を勤めることです。故人やご先祖様にお経を聞かせるという事として参詣されている方も多くおられます。
私も法要後に月に数回は、「亡くなったおじいちゃんが喜んでくれたと思う」というお話を頂きます。
そのお心は尊いと思われますが、そもそも仏教は今生きている私達が救われる教えです。浄土真宗では、私達が故人の為にする法要ではなく、亡き方が私達に死を通して我が身が問われる法要なのです。
「当たり前に生きているようだけれども、いつかは死して行く、限りあるいのちなんですよ」「本当にあなた人として生きているんですか?」と亡き方が問いかけてくださっているのです。
葬儀の際に拝読します親鸞聖人和讃には
本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の寶海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
と読まれております。
私達が、はかることが出来ないいのちのはたらきと、そのいのちからの私の心の闇を照らす光のはたらきに出遭ったならば、私達の人生がどのようなものであっても決してむなしいものにならないのです。
光のはたらきが豊かな海の様に満ちて私達の自分中心の濁った心がわき上がっても、それが自分と他社を分け隔てるものにならないのです。
人として生まれて来た私達は、お金があり、家族があり、何不自由無く暮らしていても、何か虚しい、満たされないと感じます。
また、自分というフィルターを通して他者を裁いている私達に、仏はそのような私達を救おうとはたらきかけてくださる。そのはたらきにより、自分勝手に生きてきた、自分に懺悔(さんげ)し、そんな自分こそ救おうとされる仏のはたらきに讃嘆することになります。
浄土真宗は、死というかなしみを縁として仏教、真実の教えに出遭い目覚める。思い通りになってもならなくとも、人として生まれ最後の瞬間まで精一杯生きる事ができる。そのような人に育ててくださる教えに、是非出遇って頂きたいと思います。
南無阿弥陀仏