日本人の宗教観
小学生の頃から、あまり勉強が得意ではなかった私は、初詣で参拝していたお寺で、「少しでもいい点数が取れますように」とお賽銭を投げいれて真剣にお願いしてみたんですが、その願いが叶わず、その年の成績は変わらなかったんです。
子供心ながら、「お賽銭が少なかったのが、良くなかったのではないか」と思い直し、翌年は両親からもらったお年玉をくずして、前の年より多めにお賽銭を入れて、「今年こそお願いします」と願ってみたんですが、結局なところ、テストの点数は全然変わらなかったんです。
まぁ、今、考えてみますと当然なお話ですよね。
お賽銭を入れて、手を合わせて、お願いしただけで、私の成績が上がるのであれば、誰も地道に勉強する必要なんてないんですから。
今更ながら、浅はかな行動だったなぁと思っているんですが、ただ、そういったお願いごとをしているのは、もしかすると、皆さんも同様なのかもしれません。
例えば、「長生きさせてください」とか、「病を治してください」とか、「商売繁盛させてください」などなど。
お気持ちはわかりますが、これらは全て自分の欲望を願っているだけに過ぎないはずなんです。
神様の世界はわかりませんが、少なくとも、仏様というのは、私たちの欲望を満たすために存在しているものではないんです。実は、仏さまが私たちの願いを叶えてくださる存在だと思い込んでいるのは、私たちの勝手な解釈でしかないのが現状です。
ですから、極端な表現ですが、何かお願いごとをして、その願いごとが叶わないと「神も仏もあるものか」という発想になってしまうのではないか。
こうなりますと、宗教を自分の願いを叶える『手段』として利用している姿と言われても仕方のないのかもしれません。
実は、宗教の「宗」という字は中心や要(かなめ)という意味です。
私たちは、今の生活の中で、健康であったり、家族であったり、財産であったりと大切なものをたくさん抱えて生きているんですが、その一方で私たちの人生は喪失の連続とも言われているんです。
例えば、仕事による失業だったり、財産の損失、老い病による健康の喪失など。
どれだけ手を尽くしてみても、私たちの手元には何も残らないのが現実です。
その喪失を繰り返す私たちの人生で、一体何が真のよりどころとなるのか。
私たちの人生で、何が本当の「宗」(かなめ)になるのかを「教」えてくださる世界を「宗教」と言っているはずです。
私たちの願いを叶えてくださる世界が宗教ではなく、この私たちに多くのことを呼びかけ、多くの願いを向けてくださっている世界に目を覚まされていくことが、「真」(まこと)を「宗」(かなめ)とした真宗門徒の歩みなのかもしれません。