桜
3月後半から4月上旬にかけて、街のいたるところで桜が咲くことによって、ようやく春を実感される方も多いと思います。
ここ龍善寺の境内にもいくつかの桜が植えてあり、この時期は当寺にご縁のある方をはじめ、通行人の方も境内の見事な桜に歓喜しながらカメラを向けている様子をよく目にしますが、その桜に歓喜している方の姿そのものが、私にとっての春を実感するひとコマでもあります。
また、桜というのは、厳しい冬を乗り越えて、ようやく咲いたと思っていたら、パッと散ってしまう儚さもあります。
ただ、華麗に散っていくその桜の姿に、人生そのものを重ね合わせた俳句や詩が数多く残されているのも事実であり、その中のひとつに、浄土真宗の教えを顕かにしてくださった親鸞聖人は、こんな句を残されています。
明日ありと 思う心のあだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは
この句は親鸞聖人が9歳のとき、仏道を歩むにあたり得度式(僧侶になるための式)を受けるため、天台宗座主の慈円という方のもとを訪ねますが、夜であったということもあり、明朝にするようにと促されたときによまれた句と言われています。
この句の背景には
「今、どれだけ美しく咲き誇っていたとしても、夜半に嵐のような強い風が吹けば、一瞬にして散ってしまうかもしれない。明日という時間に何の保証も約束もない。」
ということであり、人生の無常さ儚さを桜に喩えた、当時の親鸞聖人の緊迫感が伝わってくる一文です。
現代の私たちに置き換えますと、毎日忙しい生活を過ごす中で、いつしか生きていることも、朝に目を覚ますことも、明日が来ることも当然のように思い、さらに将来のことばかり心配しながら人生を歩んでいるのが私たちです。
ただ、本当は「明日さえわからない」のが真実であって、今日と同じような姿でいられる約束が何もないにも関わらず、私たちはどうしても、病になることも、死すことも自分にとっては遠い先こと、他人事のように捉えてしまっているのかもしれません。
親鸞聖人が残してくださった句は、毎日をなんとなく生きてしまっている私たちに
「本当に今を生きているのか」という問いかけに思えてなりません。
そして、街中に咲いている桜も、突如として明日は散っているかもしれないという儚ない事実を抱えているのと同様に、突発的な出来事によって私たちが、死を迎えることも十分ありえるはずであり、その事実を仏教では「生死一如」生と死そのものが、表裏一体であることをあきらかにしてくださっています。
「散る桜 残る桜も 散る桜」という有名な句もありますように、咲いた桜に歓喜するだけに止まらず、桜を通して表現してくださった先人の「言葉」にも出遇ってみてはいかがでしょうか。
真宗大谷派龍善寺、魂の故郷早稲田墓陵 早稲田納骨堂、早稲田永代供養墓では、いつでも皆様のお越しをお待ち申し上げております。
南無阿弥陀仏