ブログ|早稲田墓陵

魂の故郷(いのちのふるさと)から一言

住職、副住職をはじめ龍善寺のスタッフが、日々の歩みの中で気づいたこと、
感じたことを綴ってまいります。一月1回の更新予定です。
これもご縁と、ちょっと息抜きにでも、お立ち寄りいただければ有難いことと思います。

痴呆になる縁

先日、私の両親が、静岡の施設に入居中の祖母に会ってきました。
祖母は今月99才になりました。
祖母は苦労人で、夫(祖父)を43才の時に亡くしており、子供4人を女手一つで育て上げました。大変病弱だった祖母ですが、子供や孫、ひ孫の3世代の世話を90才位までしてきたこともあり、気を緩めることなく過ごしておりました。私も両親が共働きだった為中学入学まで祖母にお世話になっていました。
そんな祖母ですが、3年前から痴呆が進み、現在では私の事も分からない状況になりました。

 

祖母は厳しい中にやさしさがある人ですが、穏やかな顔を見ることは稀でした。
そんな厳しい祖母の写真を今回見せてもらった所、大変穏やかで、厳しさの象徴だった眉間のしわが無くなっておりました。いつも厳しそうにしていた祖母が、本当に仏様のように穏やかな顔になっていたので両親は驚いたそうです。

 

この娑婆世界は、家族や地域等のしがらみを抱えながら生きて行かなければなりません。
考え方によっては、痴呆は人をしがらみから解放して行き、死への恐怖を緩和するはたらきなのではないかと思うようになりました。
痴呆になって家族に迷惑を掛けたくないと思う人は多いですが、そもそも人間は人に迷惑を振りまきながら生きています。一人では生きていけない訳です。
高校時代の恩師に「周りに迷惑を掛けていることに感謝をしながら生きていきなさい」と言われた言葉を思い出します。現在の私でも中々難しい事ですが実践する価値が有るかも知れません。
誰しもぴんぴんころりと亡くなりたいと願う訳ですが、その通りになるかどうかは縁次第です。縁があればそうなりますし、無ければそうならない。

 

お釈迦様は、私達が思い通りにならない事を思い通りにしようとする事によって苦しみが生まれる事に気付かれています。大なり小なり皆苦しみ悲しみを抱えて生きています。
早稲田納骨堂は、人の死から来る苦しみ悲しみを縁として龍善寺に来て頂いております。亡き方が「ここに来て真実の教えをご聴聞なさい」と呼びかけているのではないでしょうか。

 

私もいつ痴呆になり、死を迎えるかは選べないですが、祖母が育ててくれた恩を抱え自らの縁を頂いた仏道を歩んでいきたいと思います。

 

合掌

3:副住職 石井祐司

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