古寺巡礼
元々お寺の生まれでもない私は、今よりもっと若い頃、それこそ仏教や寺院に興味を示すような人間ではありませんでした。
中学・高校時代の修学旅行で2度も京都を訪れましたが、その頃は寺院境内を歩くよりも、京都の繁華街を歩いている方がよほど楽しく思えていた時期でもあります。
ただ、不思議なもので、年を重ねていくうちに段々と歴史的なところへ引き寄せられるようになってきたわけですが、それは何も私に限ったお話ではないのかもしれません。
今現在、多くの方が各地で寺院巡りをされているというお話をよく耳にします。
中にはタクシーやレンタカーを借りて京都市内の寺院を効率よく訪れている方もいらっしゃるようです。
平安、鎌倉、室町など、数百年前に作られた寺院や仏像を平成の現代において目の当たりに出来ることはとても素晴らしいことですし、感動的なことだと思います。
ただ、寺院巡りそのものを少しだけ冷静に考えてみますと、一体どれだけの方が『信仰』として寺院を訪れているのかという素朴な疑問も湧いてきます。
現在、寺院巡りをして、ご本尊と向き合う機会がある方の中には『信仰』というよりも、むしろ『仏教美術』としての視点のみでご本尊と向き合っているに過ぎない方も実は多いのかもしれません。
浄土真宗のご本尊は『阿弥陀如来』
龍善寺のご本尊は今から約800年前、鎌倉時代に作られた仏像です。
新宿区ではありますが、文化財に指定されているご本尊。
本堂を参拝する方へその旨を伝えると、多くの方がその歴史の長さに驚きを隠せないのも当然かもしれませんし、鎌倉時代に作られたご本尊が時代の荒波にのまれることなく、現存しているという事実はとても貴重なことです。
ただ、本当に大切なことは単に800年前に作られたという事実だけではなく、実はその800年の間、苦しみや悲しみを抱えながら手を合わせてきた私たちの苦悩の姿をずっと一心に受け止め続けてくださっていたという事実がなにより尊いことではないでしょうか。
誰も受け止めてくれない深い悲しみを黙って受け止めてくださっているのが仏さま。
私たちが抱えている深い悲しみを共に悲しんでくださるのも仏さま。
実はその仏さまの深く温かい心が「ご本尊」という姿・形になっているに過ぎないのかもしれません。
私たちが寺院等へ訪れますと、やれ国宝だとか、重要文化財だとかに目が行ってしまいます。
ただ、本当に尊いことは単に年数や古さだけの話ではないのかもしれません。
年始になりますと多くの方が寺院へ参拝されると思います。
その際、仏教美術としてご本尊と向き合うのではなく、ご本尊という姿・形を通して、私たちに向けられている仏さまの深く温かい眼差しと出遇って頂ければと思います。
南無阿弥陀仏